この記事を読んで分かること
与論島には、女神アマミクと男神シニグクが漁に出かけ、舵が浅瀬に引っかかり、上陸したところ、サンゴ礁が盛り上がって島が誕生したという神話が伝えられています。この神話の地「舵引き丘(ハジピキパンタ)」は、与論島誕生の聖地として今も残されています。歴史的には、縄文・弥生時代の土器が多数出土しており、奄美群島や沖縄との交流があったと推察されています。この記事では、与論島の歴史と文化について、島を訪れる際に役立つ情報をたっぷりとご紹介します!
未完の城、与論城
島内の一番の歴史的スポットといえば与論城です。1405〜1416年頃に琉球の北山王の三男王舅(オーシャン)が築城しましたが、途中で北山王が滅亡したため、築城が中止され未完成のままです。天然の三層の断崖及びこれを結ぶ石垣が500m余にわたり、北端から南東へ延長200m余の石積みは、伏龍を形どったものだと言われています。
戦後の統治
1945年の太平洋戦争終戦以降、与論島は沖縄や奄美群島と共にアメリカの統治下に置かれました。その後、1953年12月25日に奄美群島とともに日本本土に復帰しました。1972年の沖縄が復帰するまでの間、日本最南端の国境の島でした。
独自の文化の形成
与論島は鹿児島県最南端の島ですが、沖縄本島との距離が近く、歴史・文化をはじめ交易や人的交流等でも沖縄・琉球とのつながりが強く、奄美群島内でも沖縄文化の影響が色濃く残る島です。そのため、沖縄・琉球と奄美諸島両方の文化の影響を色濃く受けた与論独自の文化、伝統が育まれてきました。現在の与論島住民の暮らしでも、那覇をはじめとする沖縄県内への進学や通院、買い物など、県境を越えた人流、物流が盛んです。
また、ユンヌフトゥバと呼ばれる与論方言も沖縄方言と奄美方言の2つの特徴を持つ独自の方言です。島内では「旧暦のある暮らし」が残っており、伝統行事は旧暦で行われるのも特徴です。
伝統行事
与論島を代表する伝統行事といえば、国の重要無形民俗文化財に指定された「与論十五夜踊り」です。与論十五夜踊りは、島内安穏、五穀豊穣の祈願のために室町時代の永禄四年(1561年)に創作された奉納踊で、本土の狂言や奄美群島や琉球舞踊を取り入れており、歴史的に貴重なものとされています。
結(ゆい)
さらに、助け合いの精神「結(ゆい)」が今も大切に受け継がれており、漁、農作業、冠婚葬祭など生活に深く根付いています。与論島は、沖縄と奄美の文化が融合した独自の歴史と文化を持つ魅力的な島です。
まとめ
与論島は、透き通るような海、豊かな自然、そして独自の文化と歴史を持つ美しい離島です。ビーチや観光スポット、ご当地グルメなど、訪れる人々にとって、たくさんの魅力あふれる場所です。機会があれば是非行ってみてください。旅行の計画のお役に立てたなら幸いです。
与論島について、さらに詳しく知りたい方は、こちらの記事をご覧ください!
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